江戸東京 時空を超えた歓楽街

第2回 江戸四宿・内藤新宿
〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:内藤なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

お堀が出来て町が変わった

前回、江戸時代以前の四谷にはな〜んにもなかったことはわかりましたけど、いつまでも何もなかったわけじゃないでしょ。

そりゃそうさ。江戸時代になって江戸を中心として全国を結ぶ大動脈が整備されていった。いわゆる五街道だ。五街道って全部言えるか?

う〜ん。何だろ。東海道はわかるけど、あとは何? 北海道?

恐ろしいボケをかますなぁ、キミも。いつから北海道が道になったんだよ。出来た順に言えば東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道の5つだ。

あはは。そういえば甲州街道と日光街道は今でも名前が残ってるわよね。

旧国道4号の宇都宮以北を奥州街道と呼ぶこともある。東海道は新幹線の代名詞になって残っているから、名前が消えてしまったのは中山道ぐらいかな。

その五街道は、いつ頃できたの?


慶長9年(1604)に日本橋が基点と定められてから、3代将軍家光の時代、寛永元年(1636)から正保3年(1646)の22年間で東海道、日光街道、奥州街道が完成。5代綱吉の元禄7年(1694)に中山道、甲州街道は時代がずっと下って10代家治の明和9年(1772)に完成する。

四谷に関係あるのは当然、甲州街道よね。

五街道にはそれぞれ一里(約4キロ)ごとに一里塚、一定距離ごとに宿場を置いた。甲州街道の場合、最初の一里塚は新宿4丁目の天竜寺の先、今探すなら「一里塚」というバス停が目印だな。但し、見に行っても何も残ってないけど。

じゃあ、甲州街道最初の宿場はどこだったの?

高井戸だね。でも、これが日本橋から16キロも離れていたから不便だと評判が悪かった。そこで誕生したのが内藤新宿というわけだ。

その宿場ができてから、新宿が発展していくのね。

今の新宿中心部についてはそうだけど、それ以前に、四谷近辺が先に都市化している。契機になったのは寛永11年(1634)の江戸城外堀工事だ。

外堀って、今の外堀通りと関係あるの?

ほぼ外堀に沿って作られた環状の道路が外堀通りだ。同様に、内堀に沿った道路が内堀通り。で、外堀工事で麹町にあったたくさんの寺社が移転を余儀なくされた。ざっと紹介すれば宝蔵院、安楽寺、勝興寺、宗福寺、妙行寺、永心寺、安禅寺、正応寺といったところだ。

そういえば、須賀町とか若葉二丁目の辺りってお寺がやたら多いわよね。

かつては寺町とか南寺町なんて呼ばれていたからね。翌年には牛込御門外堀、つまり今の飯田橋近辺にあった仏性寺、宝竜寺、鳳林寺、久成寺、千手院、浄輪寺、多聞院の七つの寺も移転したから、移転先が牛込七軒寺町という地名になった。これが今の弁天町だな。

お寺って広いから、引っ越しするのも大変だったでしょうね。

まぁ、逆の見方をすれば、広いから邪魔だったわけだよ。幕府としては城内にお寺を置くより、幕臣や大名の屋敷用地を確保する方が先だからね。堀ができると城門もできる。城門には警備の者が置かれて見張り所となる。これが見附だ。見附は全部で36カ所あったらしい。

赤坂見附とか四谷見附ってそういう意味かぁ。

今でも四谷駅に石垣が残っているだろ。そこがかつての四谷見附門だ。枡形の堅牢な門で、しかも、門の前には橋がなくて、離れた場所に土橋があったから、どうしても迂回しなくてはならず、守りやすく、攻めにくい構造でもあった。

そりゃあ、お城を守るにはいいでしょうけど、毎日通う人にとってはいい迷惑よね。

確かにその通りで、明治5年には不便だということで門は取り壊され、新たに四谷見附橋が架けられたというわけ。
<続きは次回>

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